歴史的背景
武蔵野台地の先端に位置して、東、北、西は田圃でお米の市がありました。
市内を取り巻き江戸まで続く新河岸川を使って舟で米や野菜などの食料を運ぶ重要な場所として、代々譜代大名が赴任していました。 江戸の祭りや文化を持ち帰り今に伝え残しているものも多いです。
川越大火
明治26年3月の大火は1300戸以上、街の3分の1が焼失。
大沢家などの蔵造りが焼け残ったので、その頃の日本橋の大店と同じように最高の防火建築である蔵造りの商家が建ち並んだ。防火上の数々の工夫、立派な屋根の造り、黒漆喰磨き仕上げの壁などが特徴としてあげられ、魅力でもあります。
商店街の移動
鉄道の駅は街の外れに作られたために、昭和40年~50年頃は人の動きは、首都圏でもあり、交通機関中心となってきました。 大型店も売り場面積を増やすことができず駅周辺に移動していき、蔵造りの商店街は商業の近代化に乗り遅れていくことになりました。 また、相続や持ち主が替わった時に蔵造りが壊されていきました。
川越蔵の会
商店街の衰退で蔵造りの建物が壊されることが多くなってきたので、自分達でまちづくりをしようと昭和58年に発足。
目標は、
1.住民が主体となったまちづくり。
2.北部商店街の活性化による景観保存。
3.町並み保存の為の財団形成。
現在はNPO法人となり蔵のファンなども入会して200名程の会員がいます。町並み委員会へ専門家を参加させたり、イベントや建築コンペを行ったり、家屋調査なども行っています。
また、女蔵部は毎年お茶会を開いています。
言わば、蔵造りの町並みに対する強力な応援団的存在であります。
コミュニティーマート構想
川越一番街商業協同組合は昭和60年度の通産省補助事業「コミュニティーマート構想モデル事業」を実施。
報告書のテーマは「小江戸川越、歴史と文化のメッセージを伝える街づくり」を掲げました。
報告書は、
1.「町並み委員会」を作って「町づくり規範」を策定する。
2.規範に基づいて店舗を整備する。
3.共同施設としてポケットパーク、電線地中化などを整備する。
4.人寄せの核施設としてお祭り会館を建設する。
などを提案しました。
これらの事業を実践するには町づくり会社を考えるとして、具現化に向けてすぐに動きだしました。
電線の地中化
川越市が埼玉県から委託管理している道路の下水の見直しを機会に東電、NTT、ガス会社などに働きかけました。
道路にトランスを置きたくなく、その民地への設置場所さがしに一年近くもかかりましたが商店街の費用負担なしで出来ました。
平成4年4月に約2年がかりで完成。 無電柱化により蔵造りの建物の魅力が顕在となり観光客増加の一助となりました。
重要伝統的建造物群保存地区
観光客の増加となりましたが、マンション問題が発生。
「町並みが崩れては大変」と、勉強会の結果、伝統的建造物群保存地区を選択しました。
平成11年に文化庁の重要伝統建造物群保存地区として選定されました。
行政のバックアップによる補助金の制度は町並みの保全をより確かなものとしました。
同時に都市計画線が廃止されたことは特筆すべき事柄でもあります。
川越町並み委員会・町づくり規範
昭和61年に商店街の委員会として発足しました。商店街の会員から署名捺印をもらい、町並み委員会が62年9月発足。会合を重ね「規範」を策定、運営規則、運用細則と一緒に63年4月商店街総会で承認され活動をはじめました。
一年かけて「町づくり規範」を定めました。 平成22年に独立。 全て自主的に定め、行っています。 委員は25名。商店街から8名、自治会から8名、蔵の会から5名、学識専門家を4名で、市の景観課と商工会議所もオブザーバーで参加しています。
地区内の景観上の変更は新築から塀にいたるまで全て図面を添えて町並み委員会に提出していただき検討、助言、提案などを月一回の例会にて行います。
「規範」は「・・してはいけない」でなく「こうすれば街が良くなりますよ」という提案型で67項目にわたります。
例えば「建物の高さは周囲を見て決めましょう」「建物の色はなるべく落ち着いたものにしましょう」等。
直接表面には出ないこの会の永い活動が効果を挙げてきていると思われます。